「2022(R4)年度」カテゴリーアーカイブ

水林下遺跡第3次(7月4日~8日)


先週の水林下遺跡での調査は、鳥海山山頂に雲が沸き上がっていましたが、フェーン現象のため、炎天下のなかでの作業となりました。


土が乾燥してしまうので、水まきをしながら調査を行いました。


C区北では、引き続き遺構の精査を行いました。


旧石器の調査では、鎌で丁寧に削りながら、石器が含まれる地層の上部を掘り下げていきました。


鶴ヶ岡城跡第4次(7月4日~8日)


調査区西辺(県道側)の土留め矢板から外れて、石積み列が検出されました。石積み列の裏側には、握りこぶしより小さな石が詰め込まれています。


石積み列はところどころ壊され、とくに北側では石の抜き取られた箇所が目立ちますが、調査区全体にわたって南北方向にまっすぐ並んでいます。


遺構検出が完了したところで空撮を実施しました。今回発見した石積み列(写真左下)は、荘内神社を取り囲む鶴ヶ岡城跡本丸堀の東辺に平行して位置しています。


鶴ヶ岡城跡第3次(7月4日~7月8日)


堀の範囲を確かめるためにトレンチ調査を実施しました。その結果、調査区の大半を、堀が埋まった後に掘られた大きな溝が縦断していることが分かりました(写真赤色部分)。江戸時代の七ツ蔵の堀は、調査区の西半部にわずかに残されているようです(写真青色部分)。


新しい段階の大溝は幅4m、深さ1.5mほどです。堆積の状況から、一気に埋め戻されているようです。


新しい大溝の壁面に、江戸時代の堀の立ち上がりが確認できました。他の場所のトレンチ調査の結果、大溝よりも堀の方が深いことが分かりました。堀の下層部分は大溝に壊されずに残っている可能性があります。


山形城三の丸跡第23次(7月4日~8日)


5区北半分の遺構の精査、記録を進めました。写真は近世の石組遺構です。


しばらく手を掛けられなかった6区の調査も再開しました。写真は、近世の大きな落ち込みです。瓦や磁器の碗などの破片が出土しました。


5区北側の調査が終了したので、残った5区南側の表土除去を行い、北側を埋め戻しました。


北向遺跡第3次(7月4日~8日)


川跡の一部に重なって土器が大量に出土する土坑が発見されました。つぼや食器などがあり、形状から平安時代のはじめごろのものと考えています。


前半の調査も大詰めをむかえ、調査区全体をドローンで空撮しました。写真は調査区の奥に大森山、左に楯山小、右側には調査区に並行して仙山線が走っています。


水林下遺跡第3次(6月27日~7月1日)


日本の後期旧石器時代の石斧研究に造詣が深い、早稲田大学の長﨑潤一先生が、本遺跡の調査・研究に関する調査指導のため、現地にいらっしゃいました。調査事務所にて、出土した石斧やほかの石器資料に関して、様々なご意見を伺うことができました。


長崎先生からは、これまで発見された同時期の遺跡に比べて、本遺跡が海に近かったり、鳥海山の溶岩地形に立地することが、非常に特徴的であることを指摘されました。


蒸し暑い梅雨空の中、C区北の遺構の精査を行いました。


遺構精査では、まず遺構のなかにある地層を半分だけ掘り下げ、どのように遺構が埋まっていったかについて調べます。そのあと、写真撮影や三次元計測用の写真撮影、土の性質について記録していきます。記録が終われば、残りの土を掘り下げて完掘します。


鶴ヶ岡城跡第4次(6月27日~7月1日)


調査区の環境が整ったところで、重機による表土掘削を実施しました。調査区が狭いので、比較的小型の重機でも調査区幅の半分以上がふさがってしまいます。


バックホーのバケットが届く4~5mずつ調査区幅の半分だけ掘り、土層断面の記録後に残り半分を掘り下げていきました。


表土除去が完了した場所から、人力で丁寧に土を削り、遺構がないか確認していきます。


鶴ヶ岡城跡第3次(6月27日~7月1日)


礎石の根石を全て掘り上げました。いよいよ堀跡の調査に入ることができます。根石を埋めるために掘りこんだ穴の壁面や底面の土の状況から、堀の範囲が推定できます。


調査区を地中側から見てみました。土の柱のように見えるのが掘りこんだ穴です。土が黒っぽい範囲が堀跡と考えられます。堀にあたる部分は地盤が悪かったためか、より深く掘りこんで根石を入れていたようです。


西側の調査区でも堀の範囲や深さを確認するためのトレンチを設定しました。人が集まっているあたりで堀の西側の立ち上がりが見つかりました。写真手前側の調査区端まで堀が広がっているようです。


堀西側立ち上がり付近の最下層から白磁の皿が出土しました。この他、17世紀前半頃を上限とする陶磁器が出土しています。


北向遺跡第3次(6月27日~7月1日)


この遺構からは強い火をたいたあとと、それにつながる掘り込みがみつかっています。中からは鉄が溶けたかすが出土していますので、鉄を加工する施設ではないかと考えています。


川のあとのような場所からは、平安時代の土器の破片がたくさん出土し、当時の洪水で流された様子がうかがえます。