重機による表土の除去が終了しました。
表土を除去した後は、遺構を探すために地面をきれいに削っていきます。
土の堆積の様子を図面にとる研修を作業員の方に行っています。今後の記録作業にそなえます。
重機による表土の除去が終了しました。
表土を除去した後は、遺構を探すために地面をきれいに削っていきます。
土の堆積の様子を図面にとる研修を作業員の方に行っています。今後の記録作業にそなえます。
土橋北半の調査を終え、今週は9月下旬から少しずつ掘り下げを行っている土橋南半の記録・精査を中心に進めました。
土橋南半上層の掘り下げ状況を馬出側(南側)から撮影した写真です。写真左側は、積み上げられた丸石を除去し、重ねて立て据えた板材の設置面まで掘り下げました。
反対側から撮影した写真です。板材は南端に至るまで土橋全体に立て並べられ、中央付近(写真手前)では土圧で東側へ大きく傾いていることがわかりました。
今週も7区南側の調査を主に行いました。江戸時代の面の調査はほぼ終了し、平安時代の遺構検出を始めました。
平安時代の竪穴住居跡です。住居の一部は江戸時代以降に壊されていたり、調査区外にひろがったりしていますが、残りは非常に良いようです。
8区南側も調査が終了して埋め戻し、新たに北側を掘削しました。来週から遺構検出作業を行います。
10月6日は豊烈神社の例大祭で、お神輿の巡行が実施されました。豊烈神社は水野家藩祖忠元を主祭神に祀る神社で、日本で三例しか残っていない古式打球で有名です。
今週も掘り下げを続けました。調査も終盤を迎え、大部分の遺物の取り上げを終えていますが、まだまだ遺物が出土します。
ドローンで空撮を実施しました。画面奥にみえる新しいS字の道路の範囲が前回、前々回の調査区です。この道路の続きが今回の調査区になります。
土橋北半の掘り下げは終盤を迎え、一番低い位置に設置された土留め板の取り上げ作業を行いました。
杭を打ち込み背後に木の枝を横たえた”しがらみ”が、土圧で傾いた土留め板の裏に隠れていました。杭の頭は土橋のなかの深い位置にあり、丸石積みよりも古い構造物と考えられます。
しがらみを備えた黄色ラインの盛土の左側は、丸石積みの土橋(赤色ラインより上の右側)を構築する前の堀の堆積層で、黄色ライン盛土が古い時期の土橋の痕跡と考えられます。
尾花沢市の原の内A遺跡の調査が始まりました。調査前に今後の計画や調査の進め方などを作業員の方に説明します。
調査区を設定した後、遺構が見える深さや、土層を確認するために調査区周縁をスコップを使い線掘りしていきます。
重機を使って、土置き場を整備します。水田の耕作土、床土、調査土を分けて置くための準備です。最初に耕作土を剝いで集めていきます。
土橋北半の下層で確認された”しがらみ”の平面的な広がりを記録した後で、南北方向に断ち割って掘り下げを行いました。
しがらみより下は、大部分が写真右側から続く堀の堆積層と判明しました。土橋は、元々堀として広く掘削されていたところに、江戸時代のある時期に構築したものと考えられます。
土橋北端の土層断面です。上層は土留め板の脇に充填した土橋の盛土で、下層は土橋構築前に堆積した堀の砂層と考えられます。
近世の遺構検出面の調査もほぼ終了しました。
遺構を清掃して、近世の遺構検出面の完掘状況全景を撮影しました。
今回の調査区の大部分は、河川の中にあるため、遺物がかつての流れにそって直線的に出土する様子がみてとれます。
別の場所では川砂利の土層に挟まれて遺物が出土し、急流に押し流されたことがうかがえます。
土橋の北半分について、記録をとりながら掘り下げを進めました。上層では盛土が比較的見られましたが、中層より下は丸石の積み上げを中心に構築しています。
写真中央の杭列より左側(土橋の本体部分)では、積み上げられた丸石を除去すると砂層になります。堀(写真右側)に面する杭列間では、下層近くにしがらみ状の小枝が広がります。
杭列の裏側には、積み上げた丸石が崩れないように横長の板材を6~7段重ねて立て据え、長細い板材を等間隔に立て並べています。板材は釘などで固定していないようです。