『発掘調査速報会2019』報告遺跡の出土遺物

新型コロナウィルス感染症対策のため中止となった『国宝土偶講演会&山形県発掘調査速報会2019』では、報告遺跡の出土品や写真パネルを多数展示する予定でした。
ここではその一部をご紹介します。web公開している資料とあわせてご覧いただければ幸いです。

●山形城三の丸跡第21次(山形市)

山形城三の丸跡出土の土器です。県内でも希少な飛鳥時代から奈良時代(7世紀から8世紀代)の土器が出土しました。主に竪穴住居跡や土坑から出土し、一部の土器では、内外面に漆と考えられるものが付着していました。

山形城三の丸跡出土の陶磁器類です。瀬戸美濃や肥前陶器の皿を中心に出土し、これに瀬戸美濃天目茶碗や志野向付などの茶道具も加わります。時期は16世紀末から17世紀前半にかけてのものが中心となります。また、金箔瓦も出土し一帯が上級家臣の屋敷地が配置されていたと考えられます。

山形城三の丸跡出土の瓦です。瓦を意図的に投棄した「瓦投棄土坑」が見つかり、17世紀中頃から後半の瓦を中心に18世紀前半までに限定されます。三の丸は18世紀前半の堀田氏の時代には空き地化が進行しており、今回の「瓦投棄土坑」は、その裏付けになっています。

●谷地城跡(河北町)

溝跡から出土した盆笊です。植物でつくられた遺物は腐りやすく、かたちが分かる状態で見つかることは珍しいといえます。ザルは竹ひごを使って編まれており、編む方向によってひごの太さを変えていることが分かりました。この他にも下駄や漆器椀などの木製品が出土しています。

こちらも溝から出土した遺物になります。石で作られた塔の一部で、相輪とよばれるものになります。この溝から出土した遺物は一番新しいもので1,600年初頭のものになります。この相輪もそれ以前のものと考えられます。石塔は当時、墓石や供養塔として使用されていました。

輸入磁器である青磁や白磁、青花や国産の古瀬戸や瀬戸美濃、肥前陶磁器が出土しています。また、古銭などが出土しています。写真の陶磁器はすべて1500年代の製品になり、時期的にこのころの遺物が一番多く出土しています。このほかでは、1200年代から1800年代まで各時期に作られたものが出土していますが、出土量に差があります。

●中関屋遺跡(新庄市)

須恵器の坏は、平安時代の9世紀中頃の時期と考えられます。ロクロ成形で、底部は回転糸切りです。ツマミの付いた蓋も出土しています。蓋の内面は摩滅し墨痕があることから、転用硯として使用されたようです。

縄文時代前期初め頃(約7,000年前)と思われる縄文土器の深鉢が出土しました。平安時代の掘立柱建物跡の柱穴SB42EP47の下から出土したものです。石器では石皿が認められ、両側に発達した磨面があり炭化物が付いています。

土師器や須恵器などの遺物が多く出土しました。覆土は焼土や炭が混じっており、不要な物を捨てたゴミ捨て場と思われます。

●上曽根遺跡(酒田市)

須恵器の坏が2枚重なって出土しました。底部はヘラ切で、時代は奈良~平安時代初期頃と考えられます。ともにほぼ完形で残っており、2枚目の底面には墨で文字が書かれていました。

須恵器の坏に「宴」の文字が墨書されていました。墨書土器に書かれる文字には場所・人名・用途などを示したもの、吉祥文字や文字の練習として書かれたものなどがあります。「宴」の意味については現在調査中ですが、おそらく祭祀や儀式などに関係した文字と考えられます。

上曽根遺跡の発掘調査では多数の斎串が出土しました。その中でもSK213土坑から出土した斎串には上部と下部の両側面に複数の切り込みが入り、精巧な細工が施されていました。
斎串は古代において使われていた木製の祭祀具で、主に神様の依り代や地面に刺して結界を示すために使用されていました。