「庄内地方」カテゴリーアーカイブ

鶴ヶ岡城跡第3次(8月8日~11日)


東調査区で見つかった堀の土層断面です。近代の溝の壁面で堀の立ち上がりを確認しています。


調査区の南側では、堀の立ち上がりが近代の溝に壊されずに数十センチの幅で残っていました。


8月11日に一般の方を対象に発掘調査説明会を開催しました。
50名の方に参加していただきました。


水林下遺跡第3次(8月1日~5日)


炎天下の中、旧石器が出土する地層の掘り下げが続けられました。石器が出土したら、周囲を柱のように残して、周りをさらに掘り下げていきます。


C区北の東側では、縄文時代中期初頭の土器が出土した、大きな土坑が2つ並んで発見されました。縦断面形が、フラスコのような形をした「フラスコ状土坑」の可能性があります。


C区北の中央部では、平安時代の竪穴建物跡と考えられる遺構が発見されました。しかし、後世に耕作地の造成などで、東半分が壊されていたようです。


鶴ヶ岡城跡第4次(8月1日~6日)


今週は堀跡の重機掘削が完了し、土層断面の記録をとった後、堀岸の精査・検出などを行いました。


乱杭が南北方向に並ぶ堀跡西岸で、江戸時代の陶磁器碗が出土しました。写真手前は氷裂菊花文の染付が施された肥前磁器碗で、完全なかたちに近い状態で残っていました。


馬出側の堀跡南岸では、黒色漆塗りの椀が見つかりました。外面には赤色漆で家紋が描かれています。藩士など庄内藩ゆかりの品かもしれません。


鶴ヶ岡城跡第3次(8月1日〜5日)


西調査区の堀を完掘しました。堀底は現地表から約3.5mの深さです。


東調査区の精査を再開しました。雨で流れた土をきれいにして遺構を探します。


見つかった遺構を完掘しました。
中央の一段下がったところは堀が埋まった後に掘られた近代以降の溝です。溝の両側にかろうじて近世の遺構が残っていました。


鶴ヶ岡城跡第4次(7月25日~29日)


石積み列南側の加工石材について、裏側の小石を除去したところ、釉薬を施した明治時代の瓦片が出土しました。加工石材の多くは背後の奥行きが短く、石垣にみられる石材の扱い方と異なります。


前週の断ち割り調査結果を踏まえ、近代の整地層と馬出(うまだし)に伴う堀跡の堆積層を重機で掘り下げています。堀跡の南側(馬出側)では、上層で崩落石が確認されました。


堀跡の土層断面を記録後、掘り残し部分を除去して崩落石の全容をあらわにしました。南北方向に大ぶりの石が7個ほど並んで出土し、馬出のある南側からではなく西側から落ちたような状況に見えます。


水林下遺跡第3次(7月25日~29日)


先週とはうって変わり、夏空が戻り、厳しい暑さのなかでの作業となりました。C区北では、中央部にある四隅に溝を有する古代の竪穴建物と思われる遺構の精査を行いました。この遺構は、残念ながら後世の耕作地の造成などで、ほとんど壊されていました。


26日には、日本および東アジアの先史考古学・民族考古学・人類環境史をご専門とする東京大学名誉教授の佐藤宏之先生が、調査指導として水林下遺跡にいらっしゃいました。3次調査で出土した台形石器や石斧の破片について、さまざまなご意見をいただきました。


佐藤先生からは、ほかの旧石器時代の遺跡には見られない、遺跡が鳥海山という火山のそばに立地するというユニークなことなどについて、発掘現場の観察を通してお伺いすることができました。


28・29日には、東アジアの先史文化の研究、東アジアの古代都市と仏教寺院の建設計画と思想などをご専門とする、東北学院大学教授の佐川正敏先生が、調査指導にいらっしゃいました。佐川先生からは、旧石器が残された当時の微地形に関することや、縄文時代や古代の遺構に関して、さまざまなご意見を伺うことができました。


佐川先生は、作業員さんと混じりながら、旧石器が出土する地層の掘り下げを行い、水林下遺跡の地層の感触を体験されておりました。


鶴ヶ岡城跡第3次(7月25日~29日)


堀西側の遺構を完掘しました。井戸や溝、土坑等が見つかっています。


先週お伝えした遺構はやはり井戸跡でした。深さ2m以上で、今でも水が湧いています。


溝の底面付近から中世の遺物が出土しました。これまで鶴ヶ岡城跡の南側の地区では中世の遺物が多く見つかっていますが、北側で見つかるのは初めてです。


溝から出土した古瀬戸瓶子(へいし)と青磁碗です。15世紀頃のものです。


鶴ヶ岡城跡第4次(7月19日~22日)


石積み列の背後を直交方向に断ち割って、構築方法や下層の確認を行いました。金峯石(きんぼういし)の加工石材を並べた南側と、河原石のみを並べた北側の2箇所を掘り下げました。


北側の石積み列背後を断ち割ると、江戸時代の磁器片を含む堆積層(写真左側の下層)が確認されました。上部を覆う整地層からは幕末前後の瓦片が出土し、石積み列が近代に属すると判明しました。


近代整地層の下で確認された堆積層(写真左)の西側では、盛土で覆われた杭列(写真中央)が南北方向に並んでいました。堆積層は二の丸大手馬出の堀跡で、杭列が堀岸の乱杭と考えられます。


鶴ヶ岡城跡第3次(7月19日~22日)


週末の大雨で、堀の部分にたっぷり水が溜まってしまいました。


堀西側の遺構の調査を進めました。堀の外側にある武家屋敷にあたる場所と考えられます。


直径1mほどの円形の遺構です。上半部の断面を記録して、ここからさらに掘り下げます。井戸跡でしょうか。