「山形県発掘調査速報会」がいよいよ2月26日(日)に迫っています。当センターからも今年度に発掘調査した遺跡の発表があります。今週はそれらの整理作業の様子をご紹介します。
馳上遺跡(米沢市)では木製品と呼ばれる木で作られた道具が多く見つかりました。
★今年度の調査の様子はこちら★
木の道具は腐ってしまい残らないことがほとんどです。この遺物は河川跡から出土したため水分を含み、真空パックの状態で保存されていたので腐らずに残っていました。貴重な遺物といえます。その木の道具の実測を行っています。物の形を図面として残す作業です。
実測図を作っている途中の状態です。遺物は馬具の鞍の部品だと思われます。県内ではあまり見つかっていません。こうした木の道具では他に皿や櫛、箱の様なもの、鍬や弓などが見付かっています。
他に特徴的な遺物として墨で土器に字を書いた墨書土器があります。書かれている文字の多くが「大王」や「奉」になります。その他に「在」、「吉」、「万」などもみられますがあまり多くはありません。写真の右に写っているのは硯の破片です。こうした道具を使って文字を書いていました。写真下の土器は文字を刻んで書いた刻書土器になります。この二点は焼いた後に文字を削りだしています。
ここで紹介した土器は速報会で展示します。是非見に来てください。
八反遺跡で見つかった一括出土銭調査の続報です。
X線CTデータを解析するソフトを使用して、古銭1枚1枚の断層画像を撮影する作業が終了しました。
撮影が終了したことで、全部で7,986枚の古銭が納められていることが分かりました。
古銭を綴った単位である緡(さし)の数は、全部で80本と前回の投稿でお知らせしましたが、それぞれの緡毎の古銭の枚数も判明しています。80本の緡のうち、70本が100枚ちょうどであることがわかりました。
残りは98~102枚の緡が7本、96枚が1本、94枚が1本、93枚が1本です。
ほとんどの緡が100枚を意識しているようです。
撮影した画像は、向きや色調等を調整して、文字を読みやすくしていきます。
調整が終了した50枚が下の写真です。様々な種類の古銭が含まれていることが分かります。
今後は残りの断層画像の調整作業を行ない、その後いよいよ古銭の銭銘判読作業に取り掛かっていきます。
今回は馳上遺跡の整理室からこんにちはです。
遺跡は米沢市にある古墳~平安時代の集落遺跡で、当時の河川沿いに営まれた50軒以上の住居跡が見つかっています。
今年も発掘調査を行っていますが、平成21~25年に調査した分の成果を来年3月に刊行する予定です。
報告書刊行に先駆けて、集落の最盛期である奈良・平安時代の特徴的な遺物をいくつかご紹介します。
前回の蝉田遺跡と同様、たくさんの墨書土器が出土しています。
最も多いのは「奉」の略字と考えられる「夲」という文字で、約70点確認できました。
神様へ食物を奉って祈るときに使われた器と考えられます。
文字を書くのに欠かせない道具のひとつが硯(すずり)です。
「円面硯」という丸いかたちのものや、皿・蓋などを硯に転用したものがたくさん出土しましたが、これは変わったかたちをしています。
もともと鉢のかたちにつくった器を窯で焼きあげる前に分割し、硯につくりかえた非常に珍しいものです。
文字を書く道具には、墨・硯のほかに木簡をけずる小刀やこれをとぐための砥石なども必需品でした。
これは、とぎへった砥石の一端に穴をあけ、約2.5cm四方の平らな面に記号のような点や線が刻まれています。
ハンコのような使われ方をしたのかもしれません。
今回は蝉田遺跡の整理室からこんにちはです。
蝉田遺跡は村山市にある奈良・平安時代の遺跡で、9世紀後半から10世紀初頭の土師器や須恵器、そして木製品などが出土しています。
3月の報告書刊行に向けて、整理室では作業が大詰めをむかえ、一番大きな須恵器の大甕の実測を行っています。
様々な出土品の中から、文字の書かれた土器を紹介します。
たくさんの墨書土器が出土しましたが、中でも最も多いのは「定」という文字です。約30点以上確認できました。
当時の人の筆遣いがはっきりと残っています。
墨で書いた墨書土器だけでなく、土器に文字を刻んだ刻書土器もあります。
これは小型の壺の側面に「佛(ほとけ)」という字が書かれています。
遺跡の役割を考える上で重要な遺物となりそうです。
2011年から3年間発掘調査を行なった東根市の八反遺跡は、現在報告書作成作業を行なっています。
以前お知らせした一括出土銭は、無事に保存処理が終了し、センターに帰ってきています。
出土した状態のまま保存処理を行なったため、このままでは内部の様子を知ることができません。
そこで、病院などでお馴染みのX線CT撮影を行ないました。内部の様子が3次元で記録されるため、あらゆる角度から観察することができます。
古銭は約100枚を一つづりとした緡(サシ)と呼ばれる単位になっています。
1段に16本、5段で80本のサシが納められていることがわかりました。約8,000枚の古銭が入っていることになります。
4本から5本のサシをひとまとまりとして曲物に納めていった様子が見て取れます。(下の写真をクリックすると動画になります)
今後、古銭の枚数や種類を調査していく予定です。
今回は、羽黒神社西遺跡の整理室からです。
縄文土器片に残っていた大変興味深い痕跡についてお伝えします。
縄文土器は、粘土の紐を積み上げていって胴部を作ります。
この粘土紐を積み上げた部分を「輪積み痕」と呼んでいます。
この輪積み痕付近は、とても壊れやすく、遺跡から発見された土器も、輪積み痕のところで割れたものがたいへん多く存在します。
今回、羽黒神社西遺跡で発見されたこの資料には、輪積み痕に粘土に紐を巻き上げるときの工夫の痕跡が見つかったのです。
粘土紐の上面にヘラなどで刻み目を入れて、接着の際に表面積を増やして接着を強化するという工夫は、よく知られています。
しかし、羽黒神社西遺跡のこの資料の場合は、少し違います。
この資料からは、粘土紐の上面をおそらく親指と人差し指でつまんでギョウザの皮をつつむような動作をしながら、土器の表面に親指の先を押し込んでヒダを作り出すという工夫が認められました。
ヒダの上には、さらに粘土紐を積み上げ、土器の高さを足していったようです。
そのヒダの上に巻き上げられた粘土紐の、ヒダとの接着面には、凸状になった指先の跡が残されていました。
このことから、ヒダを作り出した粘土紐がやや乾燥して少し硬くなった後に、やわらかい粘土紐を積み上げたと考えられます。
そのために、ヒダを作り出した特徴的な輪積み痕が残ったものと思われます。
ヒダを作った理由は、刻み目を入れる工夫と同じと考えられますが、製作実験をして確かめてみたいところです。
その一方で、この痕跡からは、土器を作った縄文人の指先を見ることができます。
わずかに残った爪先の痕跡からは、爪が長くなかったことがわかります。
いまとなっては見ることができないわたしたちの遠い祖先を、間近に感じるそんな感じがしますね。
今回は、押出遺跡の整理室から。
彩漆土器の保存処理の様子をお伝えします(出土時の様子はこちら)。
まずは土器の中に入っていた土を取り出し、破片ごとに洗浄します。
土器の中に入っていた土から、底部がみつかりました!
楕円形の高台が付いています。
今まで空気に触れていなかったので、とても鮮やかな色をしています。
漆膜のはがれや変形を防ぐために、ポリエチレングリコールという合成樹脂を塗っていきます。
水分の多い土の中に埋まっていたことにより脆(もろ)くなった部分にも塗って、補強します。
すべての破片の処理が終わりました。
これから専門の会社で復元してもらうため、しばしのお別れです。
埋文まつりでのお披露目も終わり、八反遺跡の一括出土銭が保存処理のため旅立って行きました。
曲物部分が乾かないように、水を含ませた布を巻きます。
運搬時の振動で古銭が動かないように、ラップを敷いた上で濡れたティッシュを隙間に詰め込みます。
曲物の大きさにくりぬいたウレタンで厳重に梱包し、慎重に運ばれていきました。
今後、曲物部分に含まれた水分を薬品と入れ替え、また古銭部分が錆びないような処理を施します。保存処理後は長期間の保管や展示ができるようになります。
今回は接合の作業をご紹介します。
バラバラの状態で出土した土器をパズルのように組み合わせていきます。
机一面に広がる土器の中から、一つ一つ合うかどうか検証していきます。
徐々に合うピースが見つかり、土器の本来の姿が見えてきます。
今年度八反遺跡から出土した一括埋納銭の作業状況です。
竹串で丁寧に表面の土を取り除いていきます。
古銭一枚一枚の様子がわかるまでになりました。
残存状態はとても良いようです。
大寒も過ぎましたが、まだまだ冷え冷えする中山です。
ビィーちゃんカカシは、マフラーに続き腹巻を装着し、防寒対策向上中です。
整理室では着々と作業が進んでいます。
写真は遺物の注記作業です。
洗浄が終わった土器や石器に、遺跡名・出土地点などをネーミングしていきます。
極細の筆で、米粒以下の文字を一つ一つ書き込んでいきます。
皆さん見えますか?
こちらでは木製品の実測中です。
まだ水を含んでいる木製品の形を記録していきます。
整理作業終盤の整理室では復元した土器の色付けが行われています。
土器の復元部分に、元の土器に近い色をのせていきます。
本物の土器部分にかからないように、慎重に作業しています。
Yamagata Prefectural Center for Archaeological Research