野田遺跡・下中瀬遺跡(10月16日~10月20日)


野田遺跡のSE101井戸跡の掘り下げ状況(南東から)です。井戸枠が狭いため、掘方も含めて掘り下げています。鳥海山からの湧水が豊富で、常に水が湧いてきます。


野田遺跡の調査区北端の2棟の掘立柱建物跡(南から)です。2×3間ほどの建物が2棟向きを変えて重複しています。どの柱穴が建物を構成するか分かるでしょうか?答えは来週のHPでお伝えします。


地元の高瀬小学校の児童が野田遺跡の見学に来てくれました。もしかしたらみんなの先祖の村かもしれないよ、とお話ししたところ、興味深く井戸跡や出土品を見学していました。


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月10日~10月13日)


野田遺跡のSE101井戸跡の掘方(ほりかた)を掘り下げているところです。(井戸跡の井戸枠を設置した外側の部分を掘方[ほりかた]と言います。井戸は水が出る深さまで大きく掘って、その後井戸枠を設置し、その外側の掘方に土を埋めて井戸枠を固定したようです。)


野田遺跡の調査区北端の掘立柱建物群です。(調査区北端の中央部は調査区の中でも標高がやや高い地区で、掘立柱建物跡などの柱穴が発見されました。掘立柱建物跡は2×3間の大きさで、埋土が褐灰色の粘土であることが特徴的です。写真手前に丸い柱穴が直線で並んでいます。)


野田遺跡の調査区北端東側の溝跡と土坑群です。(調査区北端の標高が高い部分には掘立柱建物群などの柱穴群が集中しますが、その東側には柱穴群を区切るように溝跡が南北に走り、建物柱穴などは希薄になります[写真左]。更にその東側には直径約1m前後の土坑群が複数確認され[写真右]、大きな集落構成がうかがえます。)


野田遺跡・下中瀬遺跡(10月2日~10月6日)


野田遺跡のSE101井戸跡の土層記録作業の様子です。縦板の井戸枠内が狭いため、掘り方(井戸枠を設置するために掘った穴の部分)も掘って井戸の作り方を記録しています。


SE101井戸跡の掘り方から、底部に墨で文字が書かれた土器(墨書土器)が出土しました。文字は略字で墨が薄いところもあり、現時点でははっきりと判読できませんが、今後センターにある機械で赤外線をあてると明確になるかもしれません。


秋田県埋蔵文化財センターの遺跡廻りバスツアーの方々が野田遺跡に来跡されました。同じ出羽国でありながら、庄内地方と秋田県では古代の住居形態が異なっており、庄内地方では掘立柱建物跡主体であるのに対して秋田県では竪穴住居跡と掘立柱建物跡が併存することなどを紹介しました。


整理室からこんにちは(上竹野遺跡)

今回は平成27・28年度に発掘調査を行った上竹野遺跡(大蔵村)の整理室からです。


上竹野遺跡では、昨年の第2次調査で弥生時代の土器棺が発見されています。現在整理作業では、この土器棺の復元を進めているところです。


土器棺は、取り上げて洗浄しましたが、バラバラの破片となっています。まず、破片を並べて元の形を確認していきます。


破片のつながりを確認した後に、土器の底部から破片を接合し組みあげていきます。大型の土器なので2人がかりの作業です。


ほぼ全体の形がわかるようになりました。高さ50cmを超える大きな壺です。完成までもう少しです。

 


野田遺跡・下中瀬遺跡(9月25日~9月29日)


野田遺跡のSK2土坑の土層断面です。SK2土坑からは、斎串(いぐし)がまとまって出土しました。覆土から出土した土器の形から、年代は8世紀後半頃のものと考えられます。


SK2土坑の斎串(いぐし)出土状況です。斎串は、長さ約20cmの細長い板の先端が三角形に加工されたもので、当時のお祭りなどに使われたと考えられています。遊佐町は鳥海山の湧水が豊富なため、普通は腐って残りにくい木製品も多く見つかります。


北区南端部の建物跡の精査状況です。黄色いリボンを付けたピンポールが立つ柱穴が建物を構成するもので、一部柱根が残るものもあります。調査区南半部の建物跡はいずれも2×3間ほどで、やや小規模です。


山形城三の丸跡第20次(9月19日~9月22日)


城北町の調査区の土層を記録しています。調査区は馬見ヶ崎川の旧河道域にかかっており、土と砂の層の堆積状況から氾濫を繰り返していたことがわかります。


堆積土上に17世紀頃の肥前陶器が出土した遺構検出面がありますが、その堆積土の中から青磁碗が出土しました。さらに約80cm掘り下げた下層からは8世紀頃の土器が出土しています。


Yamagata Prefectural Center for Archaeological Research