山形聾学校の児童2名と教員の方がセンターの見学にいらっしゃいました。
はじめて直にみる土器や土偶にびっくり!
火起こしや凹み石をつかったクルミ割り、縄文クッキーづくりの体験をしました。
この日は湿度が高かったので、なかなか火が起きず四苦八苦しました。
おしまいに、センター調査員に縄文時代のことについて、いろいろ質問をしました。
教科書では学べないことについて、知ることができました。
八幡一遺跡第2次(川西町)では、平成26年度の第1次調査区に隣接する地点で調査をおこないました。
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第2次調査区の空撮写真です。狭い範囲でしたが、井戸が多数見つかりました。ただし水が湧くものは少なく、本当に井戸だったのかどうか検討しなければなりません。
第2次調査で見つかった井戸です。深さは3mで、掘り上げるのがとても大変でした。図面を作成するのも大変なので、デジタルカメラで撮影した写真を使って3Dモデルを作成しました(写真右)。専用のソフトが必要ですが、今後普及していく技術だろうと思います。
第1次調査(平成26年度)で見つかった須恵器小型壺の底部破片です。底部に『佛法爲』と刻まれています。9世紀前半頃の土器であり、近くに仏教に関する施設があったことをうかがわせる出土品です。
国道112号の拡幅工事に伴う山形城三の丸跡の発掘調査は、大手町から城北町にかけての東西に長い範囲を平成23年度から毎年実施してきました。
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各調査区からは陶磁器を中心に多くの遺物が出土しており、現在は磁器の接合作業を進めています。
接合作業を終えた瀬戸美濃の陶器の一部です。奥は17世紀の天目茶碗と小型天目、18世紀の腰錆碗、手前は16世紀末の折縁皿です。
肥前の陶磁器も多く出土しました。奥は16世紀の青磁碗、16世紀末~17世紀初の皿、17世紀後半~18世紀初の刷毛目碗、手前は17世紀半~18世紀の染付です。
陶磁器類はおおむね16世紀末~20世紀初までの様々な産地や種類のものが大量に出土しました。整理作業を進めていくことで、当時の習俗や流通など暮らしの一端が見えてきました。
「山形県発掘調査速報会2017」の開催がいよいよ今週末に迫ってきました。当センターからも今年度に発掘調査した遺跡の発表があります。そこで、今週はそれらの遺跡の整理作業の様子をご紹介したいと思います。
野田遺跡・下中瀬遺跡(遊佐町)では塩づくりに使われた土器や、斎串(いぐし)と呼ばれる木製の道具が多く見つかりました。
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下中瀬遺跡では製塩土器の接合作業をおこなっています。製塩土器は海水を煮詰めて塩をつくるために使われた土器です。熱を受けているためもろく、バラバラの状態で出土するので、接合する面を探すのも大変です。
接合するものはチャコペンシルで印をつけたり、洗濯ばさみで仮どめをします。全体の形が見えてきたら、径などを計りながら接着剤でくっつけていきます。
こちらは野田遺跡で出土した斎串(いぐし)です。土坑の中からまとまって出土しました。斎串は古代のお祭りの道具で、頭部を山形に加工したり先端部を尖らせたりしています。
今週は天候にも恵まれ、井戸枠の隅柱や横木などを取り上げました。約1,000年前のものですが、取り上げてもしっかり形を保持していました。
井戸枠材の取り上げと共に、重機により調査区の埋戻し作業も行いました。最終週の鳥海山は中腹までもう真っ白です。
調査最終日に、最後に取り上げた大型の井戸枠材や発掘器材などをトラックに積んで調査が終わりました。半年間、炎天下の日も雨、雪の日も働いてくださった地元作業員の皆さん、ありがとうございました。
同じく調査最終日には、事業主体の国土交通省酒田河川国道事務所の担当者の方に埋戻し状況を見ていただき、現地引き渡しも行いました。今後は、上山市のセンターに戻り、出土品の洗浄や注記、復元、図面作成をして、両遺跡の実態をより明らかにしていきたいと思います。
村山市に所在する清水(しず)遺跡は、平成22~26年度に発掘を行った遺跡で、奈良時代から平安時代にかけての集落跡になります。
清水遺跡では、大量の土器が捨てられた溝跡が発見されています。
そこから出土した土器を洗ってみたところ、墨で文字が書かれているものがたくさんあることがわかりました。
これらは墨書土器(ぼくしょどき)と呼ばれ、出土状況から祈りや祭りに関して使用されたものと思われます。
中でも注目されるのは「縄」と書かれたものです。
「万」や「千」、「王」といった語句は、墨書土器に記される祈りの文字として多く出土するのですが、「縄」の字はほとんど出土しません。
全国的に同じ文字を探すと、富山県の任海宮田(とうみみやた)遺跡からのみ、大量に「縄」の墨書土器が発見されていました。
奈良時代から平安時代にかけての山形県では、国家的な開発計画のため全国からたくさんの人びとが移住させられたことがわかっており、北陸からの移民も多かったとされます。
この「縄」が意味するものが人名なのか地名なのかはわかりません。
とはいえ、ふたつの遺跡で見つかった「縄」の字のつながりは、富山から山形へやってきた人びとの存在を思わせる発見となりました。