「発掘調査速報」カテゴリーアーカイブ

鶴ヶ岡城跡第3次(6月6日~10日)


週の前半は雨の中での調査でした。調査区の周囲に溝を掘って遺構面の水はけを良くします。


遺構面をきれいにすると、石を詰め込んだ穴の列が見つかりました。鶴岡南高の前身である荘内中学校の礎石の痕跡と考えられます。


学校の屋上から撮影しました。調査区中央部の灰色に見える部分が堀跡の可能性があります。


北向遺跡第3次(5月30日~6月3日)


1台の重機で表土を掘り、もう一台で排土をまとめます。今週で重機の稼働は終わり、残りは人力で掘り下げて行きます。


地面を薄く削り、遺構を探して行きます。みな1列になって、息を合わせて作業を進めています。写真奥には大岡山がきれいに見えます。


大岡山の頂上から見た遺跡全体です。奥に月山と葉山を望みます。


北向遺跡第3次(5月23日~27日)


今週から北向遺跡第3次調査が始まりました。発掘調査作業員として、遺跡のある地域の方々にも多く参加を頂いています。まずは事務手続き。一人ひとり書類を確認しています。


重機で表土を掘削した後ろから、人力でていねいに地面を削っていくと、古代の生活のあとが浮かび上がってきます。今回の調査では何が発見されるでしょうか。


令和3年度発掘遺物速報~山形城三の丸跡第22次~

山形城三の丸跡では古代から近現代の生活痕が確認されています。


古代の須恵器の坏(つき)です。表面は火をうけたせいか、荒れています。


須恵器の蓋のつまみ部分です。内側に「大」の文字が刻まれています。「大」の文字が刻まれた土器は以前の調査でも見つかっています。どんな意味を持つのでしょう?


今から約400年前山形城の三の丸として整備されましたが、その頃の陶磁器も出土しました。上は#唐津焼の皿、下は見込みに植物が描かれた伊万里焼の皿です。どちらも16世紀末から17世紀初頭のものです。


調査ではたくさんの瓦も出土しました。出土した軒丸瓦のほとんどは巴紋ですが、花のような文様の軒丸瓦も。元禄年間山形城の城主であった堀田家の家紋、竪木瓜(たてもっこう)です。


令和3年度発掘遺物速報~杉沢C遺跡第2次~

縄文時代と近世の遺構や遺物が確認された杉沢C遺跡(遊佐町)です。土器は地文である縄文だけが施された深鉢が多く出土しました。


この土器は後期前半の時期で、煮炊きに使っていたようです。大きさの割にとても薄く、縄文人の技術力の高さが感じられます。


杉沢C遺跡で出土した縄文土器には、小さなアナが空いているものがあります。土器に入ったヒビ割れが広がらないように、対になった穴をあけ紐などで結んで土器を修復した補修孔です。現代のSDGsのように縄文人も大事に使っていたようです。


縄文時代晩期の土器が多く出土している杉沢C遺跡ですが、今年度の調査では縄文時代後期(約4000年前)の土器がまとまって出土しました。沈線で入り組み状の文様を描き、中に縄文を施します。所々にポツポツ円形の刺突文が入れられています。


縄文土器の内側に黒褐色の塊が付着しています。おそらくアスファルトの可能性があります。庄内地方では天然のアスファルトが採れますが、接着剤として使うために持ち込んでいたのかもしれません。


令和3年度発掘遺物速報~水林下遺跡第2次~

旧石器時代から近現代まで幅広い時代の調査成果が得られた水林下遺跡(遊佐町)です。


山形県内最古の磨製石斧が出土しました。約3.5~2.8万年前のもので、富山県と長野県境付近で産出する透閃石岩という石材です。再加工や過度の使用で元の形から大きく変わっていますが、磨いた面が残っています。


縄文土器も出土しています。縦に半分に割った竹で細かい格子状の文様が刻まれた土器片です。約5300年前の土器と思われます。


今回の調査では古代の竪穴住居跡も確認され、古代の土器も出土しています。写真は土師器の皿です。


調査では製塩土器も出土しています。塩を作るための土器で、大半は破片ですが、多く出土しています。海が近い水林下遺跡で、塩作りがされていたのでしょうか?


水林下遺跡第2次(11月29日~30日)


今年度の調査が終わり、使った器材についた泥などの汚れを、丁寧に洗い落しました。


現場周辺の器材の撤収や農道の補修も終わり、旧石器が出土したC区東側を埋め戻しました。


最終日には、上山市にある埋蔵文化財センターへ搬入する器材をトラックに積み込みました。積み込んだのち、トラックは出発し、センターへと向かいました。


今年度のすべての作業が完了し、全員で労をねぎらいながら、解散となりました。水林下遺跡第2次発掘調査に携わった皆さま、そしてご協力いただいた皆さまに、御礼を申し上げます。